【学生記者コラム】コロナ禍の大学生活、渦中より  大学に、行かなくなってもう1年。  それまで毎日意欲的に行っていたのか?と聞かれたらオジギソウのよ...

共同通信
「復興五輪」文化プログラムのイベントで話す大野祐介さん「復興五輪」文化プログラムのイベントで話す大野祐介さん

 大学に、行かなくなってもう1年。
 それまで毎日意欲的に行っていたのか?と聞かれたらオジギソウのように頭を垂れてしまう。確かに明け方まで友だちと遊んだりゲームをしたり気絶したり、そんなことばかりしてむしろちゃんと行ってなかった。それでいいと思っていた。
 でも、行けないなら行けないで、無性に恋しくなる。寝坊して階段教室に後ろからこっそり入るときの、やけに響いてる気がする自分の足音とか。学食の絶妙にぬるいカレーをつつきながら、視界の端で捉えた名前もうろ覚えな同期の噂をするときのとりとめの無さとか。私たちの生活はどこへ行ってしまったんだ。
 小学生も中学生も高校生も、もう当たり前のように学校に行っている。大人は普通に出社しているし(毎日ではないが)、お年寄りもたくさん見かける。キャンパスだけが、ゴーストタウンになっている。
 でも令和の大学生である私たちは、まとまらない。何も言わない。子どもより自由で、大人より責任のない私たちが何を言ってもどうしても軽く、空虚で、響かない。そんな気がするからなのか。
 いや、気持ちの共有ができていないことも理由の1つではないか。喜怒哀楽を、同世代とわかり合えてきただろうか。物事を共有する手段はいくらでもある世の中だ。今日誰かがどこで何をしてどんな気持ちになったか、そんな情報は溢れている。でも、右から左に受け流して消費して終わり。そんな毎日が浮かび上がってくる。これに気づけるのは、最も立ち止まった存在である私たちかもしれない。
 ゆとり教育の香りまだ残る頃ランドセルを背負った今の20歳前後の世代は、各々の思いや価値観を大切にしろと言われ育ってきた。すなわち、カリスマなき世代である。皆が共通して熱狂した玩具やアイドルはいない。もちろん世代を象徴するものはある、ただ熱狂の度合いに差があっても許されてきた。
 そんな21世紀少年少女な私たちは、心のどこかで気付かないうちに自己暗示を掛けているのかもしれない。「誰かと何かが違わなければいけない」と。なにか強烈な自分の個性を持たないと埋没してしまう。マーケティングの餌食にされてしまう。価値観がアップデートできていないと指弾されてしまう。そう思ってあらゆる手段で繋がり、発信し、反応をうかがう。時流をおさえ調和を乱さず、それでいて個性的と思われたいという矛盾を抱えて。
 だから私たちはまとまらないのではなく、まとまったことがないのだ。そんな、ある種それぞれが浮き足立っている私たちに出来ることは何があるだろう。あえて同世代の団結を促すジャンヌ・ダルクになるか、全てを諦め粘土に分厚いメッキを施した安心を買うか。
 1つ提案をしたい。この未曾有の状況に対し、誰がいつ何をどうしたのか冷徹に見つめてみるのはどうだろうか。この危機を大人たちがどう乗り越えたのか、時代の語り部になるのである。この役割は、表面上は繋がっていても本質は孤独で、ひとまとめにされることを拒み、得体の知れないトレンドに洗脳されることを極度に恐れる今の私たちこそ適役だろう。それぞれが別の視点をもっているからこそ、立体的に時代を描き語り継げるはずだ。
 成功もあれば失敗もある。その事実を、大人より汚れの少ない方眼紙に、子どもよりも広い視点を持って書き付けてゆく。その方法は多様にある。筆を取らないでも、街の空気を覚えておくだけでもいい。「個性」が許される世代なのだ、人それぞれ形がある。その中で共通することは、私たちの記憶が今ではないいつかに、必ず価値を持つということだろう。元の生活が戻るのもワクチンが届くのも、全てが最後になるであろう私たちこそ"しんがり"として世界を見つめる高台に立てるのだと、私は思う。(大学4年、宮城県)